ポケット時刻表は僕たちの仮想通貨だった
中学一年生の一時期、僕たちの間で奇妙なブームが巻き起こった。それは、駅に置かれている紙の時刻表、ポケット時刻表を同級生と交換することだった。三つ折りにされたそれは、僕たちの財布や定期入れにすっぽりと収まり、電車通学が当たり前だった私立中学生の僕らにとっては、日常に溶け込む必需品だった。
鉄道会社ごとに異なるデザインのそれを見るたびに、友達が持つものが何となく気になった。シンプルなもの、カラフルなもの、路線の図が大きく描かれたもの。それぞれの個性が光る小さな紙片は、いつしか僕たちの間で交換の対象となった。駅の改札に行けばいくらでも手に入る。まさに、発行量に上限のない通貨のようなものだった。
最初はただの物々交換だったように思う。「この駅の時刻表、持ってる?」「ああ、持ってるよ。そっちの駅のと交換しない?」そんな他愛ないやり取りが、日常の風景の中にあった。交換された小さな紙片は、僕らの財布や定期入れの中でどんどん増えていった。まるで、手に入れたばかりの宝物を大切にしまうように。気がつけば、みんなの財布はパンパンに膨らんでいた。
しかし、面白いことに、その小さな紙片たちに、いつの間にか価値の差が生まれるようになった。最も価値が低かったのは、僕たちの学校がある「関大前駅」のものだった。毎日、登下校の際にいくらでも手に入るそれは、希少性という点で明らかに劣っていた。次に価値が低かったのは、梅田駅や淡路駅、日本橋駅といった主要なターミナルのものだ。多くの同級生が利用するため、比較的入手しやすかったからだろう。
反対に、高い価値を持っていたのは、「遠方の駅」や「阪急電鉄以外の鉄道駅」のものだった。それらは、遠くから通学している同級生しか手に入れることができない、文字通りのレアアイテムだった。価値の高い一枚と、価値の低い数枚の交換が成立することも珍しくなかった。僕たちは、無意識のうちに、需要と供給のバランス、希少性という概念を理解し、独自の経済圏を築き上げていたのだ。
今、振り返ってみると、あの頃の小さな紙片は、まさに僕たち中学生の間だけで流通した、小さな仮想通貨だったと言えるだろう。実体はあるけれど、その価値は僕たちの間で共有された認識によってのみ成立していた。大人になって触れる金融の世界の、ごくごく小さな、そして純粋な縮図が、あの頃の僕たちの間には確かに存在していたのだ。膨らんだ財布をまさぐりながら、友達と交換したポケット時刻表を眺めていた日々は、今となっては少し懐かしい、小っ恥ずかしい記憶として心に残っている。
上の文章はアウトライナーで中学一年生時の記憶を箇条書きにし、Geminiを使ってエッセイ風にまとめたもの。