労働とは「協働」なり
とっても共感。
労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。だから、労働集団をともにするひとの笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない。これは子どものころから家庭内で労働することになじんできている人には別にむずかしいことではない。みんなで働き、その成果はみんなでシェアする。働きのないメンバーでも、集団に属している限りはきちんとケアしてもらえる。働くというのは「そういうこと」である。
内田さんの記事の内容からはずれますが、労働について思っていることを少しばかり。
労働の本質は、「協働」だと思ってます。ヒトは協働することで生産力を高めて、社会も会社も発展してきたわけですから、成果は平等に(均等にではなく)シェアされるべき、というのが持論。私が個人の成果主義に常々違和感を覚えるのは、ともすれば「労働集団をともにするひとの笑顔を見て『わがことのように喜ぶ』」という労働のモチベーションを阻害しがちだからです。年俸通知の場で、「私は(同じユニットで働いている)彼よりも働いたのに、なぜ?」という質問に、幾度となく私自身がモチベーションを下げられました。
「成果を平等に」を各論に落とし込むと、労働の量によるものか、質によるものかで難渋するわけですが、それでも「協働」のパフォーマンスこそ、第一に考えるべきだと思っています。