寿能城跡、大宮の住宅地にひっそりと残る史跡へ
さいたま市営大宮球場がある大和田公園エリアは、子供のスポーツクラブの大会で、これまで何度となく足を運んでいた。スポーツ施設が集まっているので、さいたま市周辺の住民なら、運動目的で訪れる人が多いはず。
この市営大宮球場の西側を流れる「見沼代用水西縁」を挟んだ住宅地に、城址があることを最近知った。出かけてみると住宅地の中にある寿能公園にあった。西に大宮公園、東に大和田公園という、さいたま市を代表する広大な公園があるだけに、近隣の住民でないと気がつかないほどの小さな公園だ。
もともとこの一帯は、氷川神社、大宮公園から続く松林に覆われていたが、県営住宅の造成等で松林が切り開かれ、住宅地になったらしい。また、第二次大戦中は高射砲陣地が造られたこともあり、残念ながら城の面影はなかった。
下は公園の案内板の写し。
県指定旧跡
寿能城跡昭和37年10月1日指定寿能城は戦国時代の城で、岩槻太田氏に敵対していた北条氏、特に川越城への備えのために、岩槻城の支城として永禄3年(1560)頃築かれたといわれています。
その立地は、かつての見沼が三方を囲み、自然の要害地でした。ここ寿能公園一帯がかつての本丸跡で、墓碑の立っている塚は物見櫓の跡とも言われています。見沼代用水路西縁を挟んで、東南の方角には見沼に飛び出る形で出丸もありました。
岩槻の太田資正の子でもある潮田出羽守資忠の居城といわれていますが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、豊臣勢の攻撃で落城しました。平成24年3月
さいたま市教育委員会
岩槻城主の太田資正の四男とされる潮田資忠が初代城主。その後、太田資正の嫡男氏資が後北条氏に属して岩槻城主となり、寿能城も後北条方の城になったようだ。その後、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐において、潮田資忠・資勝親子は小田原城で戦死。寿能城は浅野長政軍に攻められて落城したらしい。
戦国時代の北武蔵諸城の歴史を見ると、「後北条氏に攻略され、小田原征伐で落城」という境遇の城が本当に多い。
公園の小高い場所に潮田資忠の墓碑がある。資忠の子孫が1738年(元文3年)に建立したもの。花がしっかり供えられていた。
城址がある寿能公園には駐車場がない。車で訪問する場合は、市営大宮球場または大和田公園の駐車場を利用することをおすすめする。