盲目の大編集者・塙保己一『群書類従』の原版実物を見る
埼玉県出身の偉人で、「塙保己一」という人名は目にしたことがあった。ただ、人となりはもとより、「はなわほきいち」という読み方さえも知らない状態だった。
先日、本庄市内をクルマで走った際、整備されたばかりの新しいミュージアムのそばを通った。「塙保己一記念館」という。シックで素敵な建物に惹かれて立ち寄ってみた。
埼玉県・郷土の偉人、塙保己一について
塙保己一は、江戸時代後期に活躍した国学者。幼い頃に失明したにもかかわらず、江戸に出て学問の世界に入り、日本の主要書籍を統括する文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」を編集・出版した人物。すさまじい記憶力で、6万冊の本を暗記したという。
最近、「感動ポルノ」が話題となっている。私は、昔から「24時間テレビ」のような、湿っぽい感動モノの番組が苦手だ。私が通っているスポーツジムに下半身が不自由な利用者がいる。しばしば、彼が発達した上半身のみでバンベルをやる姿に出くわす。その度に、ただただ人の身体能力の可能性について深く考えさせられる。
塙保己一の仕事ぶりを見るとその感慨に近い。人の潜在能力のうち、10%も使っていないといわれるが、その通りなのかもしれない。
群書類従は、塙保己一が編纂した、国文学・国史の文献を網羅する一大叢書だ。聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』、和歌集『三十六人撰』から、『和泉式部日記』『紫式部日記』『土佐日記』、応仁の乱の記録『応仁記』、はてはゲーム理論書『囲碁式』からレシピ『大草家料理書』まで、幅広いジャンルを扱っている。その数、1273種530巻666冊!この完成には、江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力があり、松平定信ら時の実力者が彼を支援した。
保己一は群書類従の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させた。これが今日、原稿用紙の基本様式となっている。まさに「大編集者」である。
渋谷にある温故学会を訪問
本庄から自宅に帰って、塙保己一についてネットで調べると、群書類従の原版実物が東京の「温故学会」というところで見られることを知った、その学会、なんと勤務先から徒歩数分の距離にあった。数日後、早速、昼休みに出かけてみた。
国学院大学の南側、閑静な住宅街に温故学会の会館はあった。1927年(昭和2年)建築、鉄筋コンクリートの2階建てで、左右に翼を広げたようなモダニズムを感じる建物だ。2000年に有形文化財(建物)に指定されている。入り口には、塙保己一の銅像があった。
エントランスを入ると、すぐ左側が事務所、右側が群書類従の原版保管庫になっていた。
入場は無料。事務所からスタッフの男性が出て来て、原版保管庫の扉を開けてくれた。
自然光が差し込む薄暗い保管庫の中に入ると、群書類従の原版を収めた書庫がズラリと並んでいた。まるで「知のサーバルーム」だ。本庄市の塙保己一記念館の建築デザインは、この姿をイメージしていることに気がついた。
ここにある原版は17,244枚。背にタイトルとページが書かれて並んでいる。重要文化財だ。
棚の一番端にある原版は文字が読めた。何度も墨で印刷されたのか、漆黒の中に文字が光る。
江戸時代の「知」に直接触れたようで、何やら胸が熱くなった。
ちなみに下の写真はこの版木で印刷された聖徳太子の『十七箇条憲法』。1500円で販売されている。
保管庫を出てエントランスに戻ると、版木のすりたて道具と、ヘレン・ケラーが触れた保己一の像がケースに入って展示されていた。
ヘレン・ケラーは1937年(昭和12年)にここを訪れ、次のように語ったという。
私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされた育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います。
先生の手垢の染みたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう。
温故学会会館は興味深い建築物なので、2階に上がってみた。2階は正面から向かって右側が1階と同じく原版保管庫、左側が講堂になっていた。講堂は畳敷きだ。
講堂の周囲に掲げられた額を見て回ると、「御下賜金」という文字を発見。秩父宮、高松宮、三笠宮という昭和天皇のご兄弟の名前が書かれていた。
この建物は、20世紀の初め、皇室の支援のほか、渋沢栄一、三井八郎右衛門ら当時の錚々たる著名人の協賛で建てられた。ところが、渋谷の街なかにこのような素晴らしい建物、文化財があることを、地元で生活、働いている人たちに、ほとんど知られていないのでは?
温故学会会館は、夏の終わりの暑い昼下がりに訪れた。館内に冷房施設はなく、原版の保管に空調は必要ないのかスタッフに尋ねてみたところ、予算の都合で空調は厳しいとの見解だった。確かに24時間、この保管庫に空調を入れるのは、公益社団法人としては経営上難しいのかもしれない。
埼玉県に住む者として、渋谷で働く者として、微力ながらサポートしたいと思った。