八丁堀、鉄砲洲稲荷神社を散歩
会社のすぐ近くに、鉄砲洲稲荷神社という名所があることを、江戸時代の史跡ガイドで知ったので、昼食の後、出かけてみた。そもそも、この神社は江戸湊の入り口に鎮座する神社として信仰を集めてきたらしい。確かに、この地は「湊(みなと)」という住所。ビルの谷間を抜けて、時折、潮の香りが漂ったりする。
鉄砲洲とは変わった地名だ。私は、「鉄砲水」を思い起こし、ちょっと不吉に思うが。神社のホームページには下のようないわれが書かれてあった。
江戸の町は、慶長8年(1603年)徳川家康の命により、神田山(駿河台地に続いた神田台地)を崩し、約30年かけて埋立てを行い、日本橋浜町、呉服橋、神田堀留、南八丁堀、京橋、芝、日比谷等の地域ができ、その後、万治元年(1658年)に木挽町海手築地、少し遅れて築地明石町、本湊町海手築地の埋め立てによって出来上がった。
鐵砲洲の名の由来には、堀岸と海に挟まれた埋立地の形状が種子島に似ていた。また、寛永12年(1635年)に、大筒をつくって幕府に納めていた井上氏、鉄砲方をして仕えていた稲富氏が大筒や鉄砲の試し撃ちをした場所。海岸に沿って鉄砲のような形の町に見えた等の諸説がある。
鐵砲洲の町並みは、海岸沿いに、北から本湊町、船松町一、ニ丁目、十軒町そして南端に明石町があった。
鉄砲はともかく、隅田川や運河に近い「洲」であったことは、桜川、八丁堀といった周囲の地名からもうかがうことができる。
手水場で手を清めつつ、低い天井を見上げると下のような標語が書かれていた。いやはや、ビジネス現場にも十分に通じる言葉だな。反省……。