奥貫友山の墓・奥貫家長屋を訪ねて、川越市久下戸へ
埼玉県の三偉人は塙保己一・渋沢栄一・荻野吟子といわれてます。
都道府県を昔の令制国で考えると、さしずめ武蔵国の三偉人でしょうか? ただ「郷土の偉人」というと、自分の住んでいる市町村単位の方が、身近に感じられるもの。
そんな郷土・川越の偉人の一人、奥貫友山(おくぬき・ゆうざん)の墓を訪ねて川越市久下戸まで歩きました。
JR川越線の南古谷駅から徒歩20分。久下戸は、近年、ポツポツと戸建ての新興住宅が増えているものの、広大な田んぼが広がる田園地帯です。友山の墓は、田んぼと新しい住宅が半々の集落の墓地にありました。
奥貫友山は江戸時代の富豪で名主。以下、墓地の案内板より彼のプロフィールを。
県指定・旧跡
奥貫友山墓
奥貫友山は宝永2年(1705)入間郡久下戸村(原川越市久下戸)に生まれ、永年名主をつとめて衆望があった。寛保2年(1742年)8月、関東一円が未曾有の大洪水となったとき、友山は率先して持ち船を出し、米蔵を開いて被災者の救助にあたった。友山の救済をうけた被災者は、近郷を含めて48か村、10万6千余人といわれ、川越城主秋元涼朝は狩野周信の鷹絵一幅を賜って厚くこれを表彰した。
また、幕府の儒官成島錦江に学び、細井平洲とも交友があり、歌集「老のすさみ」なども残した。天明7年(1787)11月10日、81歳をもって没した。
昭和15年3月31日指定
川越市教育委員会
この地の農民に、とても慕われた人物なのです。
明和年間(1764年〜1772年)、武蔵・上野2か国にまたがって一揆が起こった際、裕福な名主・豪農の家は打ち壊しに遭った一方、友山の家だけは洪水の際の篤志的な行いが記憶にあったため、打ち壊しを免れたそうです。
江戸幕府の儒官・成島錦江に儒学を学び、上杉鷹山の師・細井平洲や、サツマイモの普及を図った甘藷先生・青木昆陽とも交友。その後、村に帰って私塾を開設する一方、師の錦江を通じて幕府に防災策を言上したりと、郷土を拠点に中央にも献策を行いました。
友山の『大水記』には防災の教訓が記され、それらは第二次大戦前、修身の教科書にも引用されていました。
平生節倹をつとめ、時あるに臨みて家財をつくして公衆の救難に致す、陰徳あるもの何ぞ陽報あらざらん飯を炊くには、タライへ土をぬり、其の上にて炊き候事上策なり、水の浅深に従ひ浮沈して水の入る事なし木を植えるなら榛の木、鳥をかうなら鶏を飼え
友山の墓に手を合わせると、墓の向こう側に立派な門が見えます。
代々名主を務めた奥貫家の長屋門です。古くからの樹木に囲まれており、新しく建てられた周辺の戸建ての住宅とはまったく違った重厚な趣。入り口の両側、屋内は使用人の住居や納屋として使われていました。
田植えを終えたばかりの水面に門構えが映え、この一角だけは、江戸時代の農村にタイムスリップしたような気分になりました。
帰りは久下戸の広大な田んぼの真ん中を歩いて、南古谷駅方面へ。
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