川越五河岸、扇河岸から新河岸・寺尾河岸の舟運跡を歩く

川越五河岸とは

江戸時代から明治時代にかけて、江戸〜川越間の交通路だった新河岸川舟運。舟運跡を、休日少しずつ歩いている。

前回、舟運の起点である川越の仙波河岸から扇河岸までの散歩について書いた。今回は、扇河岸から、新河岸・牛子河岸を経て寺尾河岸までについて書く。

新河岸川の起点はもともと仙波河岸ではなく、もう少し南にある川越五河岸だった。川越五河岸とは、川越藩が制定した5つの河岸場(港)を指す。上流から扇河岸・上新河岸・牛子河岸・下新河岸・寺尾河岸と、約1.6kmの川筋に沿って、5つの河岸が並んでいた。河岸場と河岸場の間の距離は、他に比べて短かった。横浜港や神戸港の各埠頭のようなものだったのかもしれない。

以下、Wikipediaより各河岸の解説。

  • 扇河岸 – 川越藩主・松平信綱の時に取り立てられ、天和2年(1682年)に河岸が形成された。新河岸川右岸。材木の貯木場があった。
  • 上新河岸 – 正保4年(1647年)川越藩主・松平信綱の時に取り立てられる。新河岸川右岸。旭橋の上流。
  • 牛子河岸 – 寛文4年(1664年)、川越藩主・松平輝綱の時に取り立てられる。主に江戸・葛西からの肥灰を受け入れていた。新河岸川左岸。
  • 下新河岸 – 川越藩主・松平信綱の時、上新河岸と同じ頃、元禄以前の開発といわれる。新河岸川右岸。旭橋の下流。船問屋「伊勢安」跡がある。
  • 寺尾河岸 – 寛永15年(1638年)、仙波東照宮再建の為の資材を輸送するために取り立てられる。一旦衰微するが、正保年間に再び取り立てられる。新河岸川右岸。
寺尾河岸周辺の新河岸川

扇河岸から散歩をスタート

扇河岸(については前回も書いたが)、新河岸川が不老川と合流する新扇橋付近にあった。扇河岸は川越五河岸の中では、最後に開かれた河岸だ。

新扇橋から見た新河岸川と不老川が合流する地点

この付近には、元々丸池と呼ばれる付近の湧水が集まる池があった。1682年(天和2年)12月28日、お七火事として知られる天和の大火の際、川越藩主・松平信輝の江戸屋敷が類焼。再建用木材を入間川を筏で下って川越で崩し、船に積んで江戸へ運ぶことになった。

ところが、南方の新河岸は川越の城下から遠く、また十分な広さの空き地が用意できないため、新たに丸池を埋め立て河岸としたのが、扇河岸の始まり。埋立地の形が扇に似ていたため、扇河岸と呼ばれるようになったらしい。

扇河岸があった場所。対岸は砂中学校

新扇橋の南側、市立砂中学の対岸がいくぶん開けており、ここの扇河岸があった。「扇河岸」という地名は現在も生きている。4月下旬に歩いた時、河岸の跡は一面菜の花が咲き誇っていた。

扇河岸から新河岸川右岸を下流に向かって歩く。土手の上も道幅が比較的広く整備されている。ジョギングやウォーキングをする人々もちらほら。

1.5km、20分ほど歩くと、次の橋、旭橋に到着。旭橋は現代のコンクリート橋だが、往時は新河岸橋という長さ8間の板橋が架けられていたという。

往時の河岸場の面影がうかがえる下新河岸

旭橋周辺には、川越五河岸のうち、4つの河岸が集中していた。旭橋の北側に右岸に上新河岸、南側右岸に下新河岸、南側左岸に牛子河岸、下新河岸のさらに下流に寺尾河岸があった。独立した河岸ではあるが、4つの船着き場を持つ大きな港と捉えることもできる。

4つの河岸の中では下新河岸が、当時の面影を残している。旭橋の西側に、河岸跡を示す看板が立てられている。

市制定・史跡
新河岸川河岸場跡

 新河岸川舟運の歴史は、寛永十五年(1638)川越仙波にあった東照宮が火災で焼け川越藩がその再建資材を江戸から運ぶのに新河岸川を利用したことに始まるといわれる。
 翌寛永十六年、川越城主となった松平信綱は、もと内川といった荒川の支流、新河岸川を本格的に改修、水量を確保して川越―江戸間の舟運体制を整えた。旭橋を中心に、上新河岸、下新河岸、扇河岸、牛子河岸、寺尾河岸の五河岸沿には船問屋商家が軒を並べ、さらに下流には古市場、福岡、百目木、伊佐島、本河岸、前河岸、志木河岸、宮戸河岸などが開設され明治維新まで繁栄が続いた。当初は川越藩の年貢米運搬が主だったが、後一般商品も多く運ばれるようになり、(江戸行ー醤油・綿実・炭・材木、川越行―油・反物・砂糖・塩・荒物・干鰯等)舟運を更に発展させた。
 現在も周辺には元禄年間の「そうめん蔵」や水神宮、また明治三年建造の船問屋伊勢安の店構えなどがあり、往時を忍ばせている。

昭和五十五年十一月 川越市教育委員会

川辺の河岸場(船着き場)があり、河岸場の階段を上がると、右手に日枝神社の社殿、前方に斎藤家住宅(旧伊勢安)の店構えが見える。河岸場は近年整備されたもの。

船問屋・伊勢安の隣には古風な米屋があり、この一角のみ、河岸場の雰囲気が色濃く残る。

「新河岸」という地名は、川越の住民であっても、今では東武東上線の駅の方がイメージするのでは? 新河岸駅は東上線の中でも今ひとつ影が薄い駅。かつて隆盛を誇った新河岸からすると、少々残念だ。

斎藤家住宅(旧伊勢安)前の道を挟んで、日枝神社と観音堂がある。同じ境内の中で社殿とお堂が並ぶ珍しい風景が見られる。神仏習合の時代の名残だ。

日枝神社。周囲よりも一段高くした石垣の上に建つ

日枝神社の祭神は大山咋神(おおやまくひ)。東京・赤坂の日枝神社のサイトに、ご神徳としてこのような説明が。

大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神徳は広大無辺です。

水を司る神ということで、舟運関係者の崇敬を受けたのだろうか。

一方の観音堂。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、川越市古谷本郷にある天台宗・灌頂院の門徒で、川越市木野目の長者の建立とされている。

観音堂。お堂が残るのみ

また、この辺りは、戦国時代・北条氏康の家臣・諏訪右馬亮が開発し、居城があったとされているが、城跡については別の機会に書いてみたい。

寺尾河岸付近が往時の新河岸川の情緒あり

さて、残りは牛子河岸と寺尾河岸である。

牛子河岸は下新河岸の対岸にあったが、今は見る影もない。土手と近年建てられた戸建て住宅が並んでいる。往時の雰囲気が色濃く残る下新河岸とは対照的だ。牛子河岸にあった船問屋は1軒だけで、川越五河岸の中では一番規模が小さな河岸場だった。

ただ、牛子河岸のある新河岸川左岸は土手が高台になっており、見晴らしがよい。一方、右岸は下新河岸から寺尾河岸を経て寺尾ポンプ場の近くまで、川のすぐ側を歩く。舟運の目線で風景を見ることができる。

寺尾河岸跡から見た左岸の風景

最後に寺尾河岸。川越市寺尾というと、現在は河岸場よりも、もう少し下流にあるジョギング可能な遊水地で知られている。

下新河岸から下流に歩くと、広い河川敷のような場所に出る。河岸場としては、他の4つの河岸よりも広々とした印象がある。明治元年まで7軒の船問屋が開業していた。

河岸跡は住民の花壇・菜園が作られ、子どもたちの遊び場となっている。

私は、川越五河岸の中で寺尾河岸付近の新河岸川の風景が一番のお気に入りだ。