明治初期の村立学校・三福学校跡(ふじみ野)

ゴールデンウィークに新河岸川、古刹・蓮光寺の対岸、ふじみ野市側の土手を歩いていると、民家のガレージの脇に小さな案内板を発見しました。「三福学校跡」と書かれています。何やらめでたい学校の名前。

三福学校跡の案内板。小さな案内板ので気づかずに通り過ぎそう

案内板に書かれた由来を読むと、「三福」とは学校を設立した福岡・中福岡・福岡新田、3つの村を指すようです。

三福学校跡

三福学校は、明治11(1878)年に、福岡・中福岡・福岡新田の三村連合の学校として旧上福岡市域で初めて当地に設立されました。開校当初の建物は倒壊したため、明治15(1882)年に木造茅葺きで一部擬洋風の三教室を備えた校舎が再建されました。その後、明治22(1889)年に福岡尋常小学校に改称され、大正6(1917)年に750メートル南西の現在のふじみ野市立福岡小学校の地に移転するまでの約40年間、当地は旧市域における近代教育発祥の地として学校教育の中心的役割を果たしました。  現在、三福学校の関係資料は、上福岡歴史民俗資料館にて展示公開されています。

平成13年11月 ふじみ野市教育委員会

1878年は大久保利通が暗殺された年。前々年1876に廃刀令が発布、前年1877年に西南戦争が勃発。明治維新後の混乱がまだまだ収まらぬ一方、東京商法会議所(後の東京商工会議所)が設立され、東京・大阪株式取引所、電信中央局が開業と、日本が近代社会に向けて着実に歩みを進めた年でした。

文明開化という時代の空気があったとはいえ、農村地帯であったこの地に学校が設立されたのは、当時、画期的なできごとであったはず。三福学校の校舎は、3つの村の村民の寄附を集めて作られたそう。きっと進取の気風に富み、村の豪農を説得して回ったリーダーがいたに違いありません。

ふじみ野市の公式サイトによると、校舎の規模・構造は、木造平屋建・茅葺き・延床面積約150平方メートル。正面中央に出玄関が設けられ、3教室と職員室・小使室・トイレが配置されていました。教室正面・側面の窓は洋風のアーチ型だったとのこと。

三福学校跡の案内板に描かれた絵。古老からの聞き取りをもとに再現

その後、校舎は現在の福岡小学校東、上福岡歴史民俗資料館の地に移転され、昭和47(1972)年まで、福岡村・福岡町役場庁舎として使用されました。現在は、残念ながら校舎は解体されて、市により保存されているそうです。

ふじみ野市の市会議員・田村のり子さんのブログに、解体保存されている校舎の資材の様子が報告されています。

やあ~旧三福学校の建築資材を見てきました。

三福学校跡は国道254号線バイパスの第2新河岸橋からすぐ