人捨穴、不受不施僧の墓、島の歴史の奥深くへ – 八丈島旅行(4)

三原山登山を諦めて“奥深い名所”に立ち寄り

八丈島は北に八丈富士、南に三原山、2つの火山を持つ落花生のような島。いずれも低山なので、朝一番の八丈富士に登り、午後は三原山に登ろうかと少々無茶な計画を立てていた。

軽い昼食の後、レンタカーで三原山に向かったところ、大賀郷地区から登山口までの林道が通行止めになっており、南の樫立地区まで大回りしてアクセスする必要があった。八丈富士に比べると登山口までの林道がかなり傷んでいた。

登山口に到着した時間は14時。2時間で頂上まで登って下山する自信がなく、三原山は諦めて引き返した。

三原山登山口への林道。右奥が三原山

Googleマップを調べると帰りの林道沿いに「人捨穴」なる気になる場所を発見した。せっかくの機会、立ち寄ってみることに。住所は伊郷名(いごな)。八丈島をぐるっと回る八丈一周道路近くだ。

「人捨穴」は風葬の跡?

道路沿いに案内板が立っていた。近くに彼岸花が咲きほこっている。アプローチからして怪しい雰囲気。

レンタカーを道路端に駐めて案内板の通りに坂道を上った。

数十メートル歩くと右手に洞穴が見えた。穴というよりも岩の大きな隙間に見える。不気味な雰囲気。

岩の隙間に近づいて中をのぞき込むと、小さなお地蔵様が一つ安置されていた。お供え物のペットボトルが転がっている……。

突然、左手に鳥肌が立った。日本中を旅をしていると時々こういう場所に出くわす。島根県安来市にある現世と黄泉との境目・黄泉比良坂(よもつひらさか)、山形県飛島の賽の河原にある名もなき神社、沖縄県与那国島の久部良バリ……。

すぐに引き返した。理由は分からずとも、体がアラートを発する場所ってあるのだ。

民宿に帰った後、パソコンで「人捨穴」について調べてみたが、ホラースポットとして紹介しているページばかり。

その多くに「江戸時代、飢饉が頻発していた八丈島では口減らしが頻繁に行われており、50歳をすぎると人捨穴に捨て置かれた」と説明されているが、信ぴょう性はない。死体を埋葬せず外気中に晒して自然に還す「風葬」の場所という情報も。

Googleマップで人捨穴の場所を確認

江戸時代の殉教者「不受不施僧の墓」

この日、人捨穴のほかに、もう1か所“暗い名所”に立ち寄った。不受不施僧の墓。

「不受不施僧(ふじゅふせそう)」という存在は知らなかった。日蓮宗の一派で「法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしない」という不受不施義を守ろうとした僧のこと。江戸時代、教団が非合法化されたことで、キリシタンと並んで厳しい弾圧を受けたという。

明治維新後の1876年、明治政府よりようやく宗派再興を許可された。当時、信者は2〜3万人存在していたといわれていて、隠れキリシタン同様、禁制の中、秘かに信仰を持ち続けた信者がいたようだ。

八丈島には30人ほどの不受不施僧の墓があり、そのうちいくつかがここに集められて改修整備された。

樫立地区の小高い場所に墓地がある

下はお墓のそばにあった説明。

不受不施僧の墓

 不受不施派は日蓮宗の一宗派で、僧は信者でないものを供養せず、信者以外から布施は受けない、という宗制を固守し幕府に逆らったため危険視され、寛文6年(1666)キリシタン同様禁断の厳命が下り、多数の信者が磔(はりつけ)、斬(ざん)、流(る)などの刑に処せられた。
 八丈島にも多数の流刑者が送られてきたが、それらの墓に終戦前まで本山の妙覚寺から清掃料が送られてきたという。
 封建時代における宗教弾圧のむごさを、目の当たりに見せられる墓標群である。
 昭和58年に、島内各地にあったものも集められ改修整備されたものである。

町郷土資料(金石文)
昭・51・5・11指定
八丈町樫立伊婆之郷墓地

墓地の案内板より

この地は、不受不施派の信徒にとって大切な参詣の場であるらしい。

江戸時代、キリシタンへの弾圧は小学校で教えられるほどに知られているが、同じような境遇にあった仏教徒がいたとは。八丈島で経験した無知の知だった。

Googleマップで不受不施僧の墓の場所を確認


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