近鉄あやめ池遊園地の閉園で思うこと
関西で情報誌の編集者をやっていた頃、私は電鉄・アミューズメント施設情報を担当していました。20代を通じて、関西の遊園地、動物園、水族館、植物園、ありとあらゆるアミューズメント施設に足を運びました。5月の遊園地特集、秋の行楽特集、クリスマスと年末年始特集、1年に3度は取材・撮影に出かけました。私の情報誌編集者としてのホームグラウンドは、遊園地にあったといっても過言ではありません。
1998年5月、近鉄系の玉手山遊園地が閉園しました。玉手山遊園地は創業が1908年(明治41年)、「東の花やしき、西の玉手山」と呼ばれる歴史ある遊園地です。1970年代、私が小学校の頃は、月曜の朝にクラスメートが「昨日、玉手山に行ってきた」と自慢げに語る行楽スポットでした。しかし、閉園の年の年間入園者数は70000人。1日わずか200人あまりまで落ち込んでいたそうです。
閉園の数か月前、玉手山遊園地の園長と、閉園理由についていろいろお話をお伺いできる機会がありました。園長いわく、大型テーマパークの出現よりも、家族像の変容が一番の理由であると、興味深いお話を聞かせていただきました。
1960〜70年代、玉手山遊園地の全盛期、子ども会の団体客が収益を支えていたそうです。柏原のいちご狩りと玉手山遊園地は、子ども会の定番コースでした。確かに、弟や近所の子どもと連れ立ち、出かけたことを思い出しました。しかし、少子化とマイカーが普及するにつれ、地域の家族同士が子ども会として連れ立ってでかけるスタイルはすたれ、家族単位でクルマでバーベキュー等に出かけるようになったのが、来園者数減少の一番の理由だったそうです。
南海系のさやま遊園、阪急系の宝塚ファミリーランドに続き、あやめ池遊園地までが閉園するそうです。
電鉄系遊園地は、歴史的な使命を終えたのでしょうか。神戸新聞の連載『最新版 遊園地事情』(2002年)の中にある、私と同世代の京阪電鉄のスタッフが、赤字のひらかたパーク事業について吐露した 「収支だけで閉められない」という言葉は胸につまります。
ちなみに、情報誌『Meets Regiaonal』に書いた、玉手山遊園地園長のインタビュー記事の見出しが下です。
僕たちのストロベリー・フィールズ、玉手山遊園地フォーエバー。
下は、あやめ池遊園地閉園の日の模様。「蛍の光」が演奏されたようです。
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