新河岸川舟運「早船発祥の地」(ふじみ野)
新河岸川は江戸時代から明治時代にかけて、江戸と川越を結ぶ舟運が栄えました。川沿いに多くの河岸(かし)=船着き場が作られ、大いににぎわったそうです。首都圏郊外に伸びる私鉄沿線のようなものですね。
新河岸川を行き交う船には、並船・早船・急船・飛切船などがありました。並船は終着地の江戸・浅草花川戸まで往復1週間〜10日ほどかかる不定期の荷舟、早船は乗客を主として運ぶ屋形船、急船は往復3、4日かかる荷船。飛切船は今日下って明日上がる特急便です。
川越市の渋井で新河岸川から分かれるびん沼川、立堀橋のたもとに早船発祥の地があります。平成29年(2009)建立の比較的新しい碑と、新河岸川の多くの河岸で見られる水神の塚が並んでいます。
下は案内板に書かれている説明。
早船発祥の地
新河岸川を航行していた船の種類には、不定期の並船(往復1週間〜10日)、急船(往復3、4日)、飛切船(今日下って明日上る特急便)、雁船(さつま芋・野菜等、特に秋〜冬の雁が渡来する時期に運行する船)等があり、舟運の最盛期である天保期には乗客を主とした早船と呼ばれる船も登場しました。早船は乗客を主として運ぶ屋形船の定期便で、1往復で4日から5日を要し、急を要する軽い荷物も扱っていました。
早船は天保2年(1831)に砂村の船持船頭、善兵衛が始めたものを、下福岡の船持船頭の栄次郎が引き継いだものです。この下福岡の早船屋がある場所は、荷船や渡し船の船着場で、早船屋は宿屋も営業していました。
早船屋(吉野家)に伝えられた339点の古文書の主な内容は、川越と江戸を早船(乗客と軽貨物取り扱い)で往復した栄次郎に関するものと、幕末の黒船来航に際して海岸警備を命じられた川越藩から、船による御用荷物運搬を任された吉五郎に関するもので、ふじみ野市指定有形文化財「早船屋文書」として、大切に保管されています。
屋形船で江戸に向かうとは、なんとも優雅。
早船は、さながら現在の東武東上線の快速急行のような存在だったのでしょう。
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