流人・宇喜多秀家の史跡を巡る – 八丈島旅行(2)
八丈島で大往生した関ヶ原の敗将
歴史好きが高じて大学では日本史を専攻。ゆえに、史跡・戦跡・武将の墓などには暇があれば車で出かけている。
そんな中、気になる存在ながら訪れる機会がなかったのが、豊臣家の五大老の一人であり、関ケ原の戦いで西軍の主力大名だった宇喜多秀家が流された八丈島。車では行けない旅行先だ。
今回、八丈島を旅行するにあたり、あらかじめ宇喜多秀家にちなんだ場所3か所をグーグルマップで「行きたい場所」にマークをつけた。宇喜多秀家の墓・宇喜多秀家の旧宅跡・宇喜多秀家と豪姫の像。
宇喜多秀家の半生についてはこちら(Wikipedia)を参照。有名な武将なので、彼の人生についてはいろんなサイト、ブログが語られている。
戦国大名の貴公子としての前半生と、八丈島流人としての後半生が対照的。私も50歳を過ぎて少々興味の対象が代わり、前半生の華麗なる戦歴よりも、50年もの流人生活を送りこの地で大往生を遂げた後半生が気になるようになった。
彼は慶長11年(1606年)に八丈島に配流になり、明暦元年(1655年)にこの地で亡くなった。享年84歳、大往生である。
ちなみに彼が関ヶ原で戦った東軍の諸将の没年は以下の通り。
- 徳川家康 元和2年(1616年) 享年73歳
- 黒田長政 元和9年(1623年) 享年56歳
- 福島正則 寛永元年(1624年) 享年64歳
- 加藤嘉明 寛永8年(1631年) 享年69歳
- 細川忠興 正保2年(1645年) 享年83歳
関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り、秀家が刺し違えてでも倒そうとした小早川秀秋の没年は慶長7年(1602年)、享年21歳だ。秀家は敗軍の将でありながら、江戸幕府四代将軍・徳川家綱の治世まで生き抜いた。
宇喜多秀家のお墓に墓参
最初に訪れたのが秀家のお墓。八丈島の中央、大賀郷(おおかごう)の大通り沿いにある墓地の中にあった。大通りといっても離島・八丈島のこと、住宅街、商店がぽつぽつとある片側1車線の通りだ。ただ、通りを挟んで対面に大型バスが駐車できる駐車場があった。
彼の墓は、約7メートルの玉石垣に囲まれた敷地の中にある。供花は新しい。数時間前に供えられたばかりのよう。墓地は常にきれいに清掃されているようだ。江戸時代の藩主であっても、雑草が伸びている墓所は意外と多い。八丈島には宇喜多秀家を顕彰するグループがあるという。しっかり手入れされているのだろう。
墓地のそばにあった案内を読むと、この墓は彼の没後約200年後に子孫が建てたものであり、もともとは別の場所にあったものを移転したと書かれてあった。
東京都指定旧跡宇喜多秀家墓
所在地 八丈町大賀郷2235-1指定 昭和35年2月13日
宇喜多秀家は、備前国の武将宇喜多直家の子で、羽柴(豊臣)秀吉に従い秀吉の天下統一、朝鮮出兵等に活躍します。秀吉の秀は秀吉の一字を与えられたものです。備中、備前、美作に約50万石を領し、備前宰相として秀吉の五大老に列せられます。また、秀吉の幼女となった前田利家の娘を正室として迎えたことから、前田家とも姻戚関係となりました。
関ケ原の戦いに敗れ、慶長11年(1606)に八丈島に流され、明暦元年(1655)に死去します。墓石には83歳と刻まれています。墓は約7m四方の玉石垣に囲まれた一族墓の中央に位置する五輪塔形の墓石で、天保12年(1841)に子孫が建てたものです。当初の墓石は傍らにある位牌形の墓で、現在地より西北方にあったものをこの地に移転したものです。平成25年3月建設 東京都教育委員会
宇喜多秀家の墓の案内板
秀家と共に長男・秀高と次男・秀継も八丈島に流刑になっている。秀高は百姓になって八丈島奉行・奥山忠久の娘をめとった。秀継の子孫は浮田姓を称して、浮田半平家・浮田半六家・浮田半七家として残った。
明治時代になって宇喜多一族は赦免され、元・加賀藩主前田氏の庇護の下、東京に移住したものの何人かは数年後に八丈島に戻ったという。子孫の人たちは先述の顕彰グループの関係者なのだろうか。
なお、秀家の墓は、八丈島の他にも、前田氏ゆかりの東京都板橋区の東光寺、石川県金沢市の宝池山功徳院大蓮寺にもある。
お墓近くにある秀家の旧宅跡へ
秀家の墓から数分ほど南に歩いた場所に彼の旧居跡がある。こちらは墓地と違って、大通りから少し入った場所だ。
入口に秀家が手づから植えたとされるソテツ、岡山城の石があった。
宇喜多秀家縁の蘇鉄
宇喜多秀家旧居の案内板
これは秀家が着島時手づから植えた蘇鉄である。
四百年以上を経た今も秀家の血脈はこの蘇鉄の如く枝分かれし、多くの子孫に受け継がれている。
慶長11年(1606)着島 明暦元年(1655)病死
享年83才
ソテツの横の細い道を奥に進むと旧宅跡に出た。といっても広場に石碑が立てられているだけ。南の島なので、草むしりをしても1週間もすればあっという間に雑草に覆われてしまいそうな場所だった。
大名から流人になった彼にとって八丈島での暮らしは不自由で、「嵐のために八丈島へ偶然退避して来た福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話」や「八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話」などの逸話が残っている。
ただ、往時の暮らしをのぶのは難しかった。
遠く岡山城を望む宇喜多秀家と豪姫の像
宇喜多秀家は、正室として豊臣秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫をめとった。二人とも幼少より秀吉に愛され育ったらしい。
秀家は二人の息子と共に八丈島に流されたが、正室・豪姫は同行が認められなかった。当初・豊臣秀吉の正室であった高台院に仕えていたが、洗礼を受けたのち、実家・前田家の金沢に引き取られた。
豪姫は寛永11年(1634年)に死去。享年61歳。秀家が亡くなったのはその20年後。もちろん流刑後に二人は会うことはなかった。
八丈島の西岸に溶岩流で生まれた南原千畳岩がある。その南端に宇喜多秀家と豪姫の像がある。1997年、岡山城築城400年を記念して建立されたもの。二人が眺めているのは岡山城のある方向。
像そのものはとりたてて特徴はないが、前は太平洋、後ろは八丈富士、のどかな時間を過ごせた。
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